埼玉大会 元生徒の証言2と感想
 この日、会場には大村はまの教え子がほかにもいた。諏訪高女の生徒の一人、増沢千鶴さんと、石川台中学の古川亮二。午後には、目黒八中の羽島さんの級友、篠原尚男さんも駆けつけた。
 そうした姿に気づいて、司会の中山厚子さんが「証言」の最後に発言を促した。古川さんは、昭和40年代の生徒で、読書論を読んだり、読書について考える単元を終えたとき、すっと手を挙げて、「先生の読書指導は…ちょっと古かったのではありませんか」と発言し、大村はまを感激させた生徒である。増沢さんは90歳。塩尻に住んでいらっしゃるが、前日から横浜のお子さんの家に泊まって、お孫さんに送られて浦和にいらした。大村先生が98歳の冬、自分の衰えを切実に知り食欲もなくして籠もっていたとき、蕗味噌を届けて、勇気づけた人である。

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古川 私は小学校の学校長を勤めていますが、そこに至る意志とエネルギーと自信、私もそういうものをいただいたと思います。自分の人生そのものが、大村先生にいただいた言葉で生きてきた。私は大学も工科系で民間に勤めたのですが、大村先生の指導に引っ張られるようにして通信教育で資格をとって教員になりました。とにかく、教えることが楽しくて、実践するとまた振り返って記録を書きたくなる。書くのが楽しくてしょうがない。自分の実践を振り返って、形に残したい。思い返してみるとこれって大村先生がやられていたことを知らないうちに真似していたのかなと思っています。大村先生に感謝しています。

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増沢 私は昭和九年に入学しまして、国語と作文や習字を二年間で教えていただきました。その後書くことが好きだったものですから、先生に日曜日にお時間をいただいて、先生のご都合のいいときにお邪魔して、卒業まで教えていただきました。卒業しました後、勤めましたけれども、そのときにやはり書くことがどうしても必要でしたので、東京のお忙しい先生のお宅まで書いたものをお送りしては添削していただきました。一時、中断しましたが、七十年近く、私はお電話でいろいろご相談で教えをいただいて参りました。ついお亡くなりになる十日前も、先生のお声をうかがって本当にいつも先生を思い出すたびにすぐ耳の傍らに先生がいらっしゃるようなそんな感じを持ちながら暮らしています。今もって先生のおっしゃってくださったことが耳から消えないという状態です。

 当日、参加していた茨城県の岩井中学校教諭 中村卓哉さんが、感想をお寄せくださったので、紹介したい。現役の教員として、大村はまの生徒が何を語るかということに深く関心を寄せて下さったそうだ。     

          
               茨城県坂東市立岩井中学校(筑波大研究生)中村卓哉
 猛暑がつづいた今年の夏,私は『評伝 大村はま』に出会いました。大村先生には,国語教育に向ける情熱ゆえの様々なご苦労や葛藤があったことを知り,ますますその偉大さを感じるとともに,あつかましいことかもしれませんがお一人の人間として,少し身近に感じられるようにもなりました。そのような最中に参加させていただいたのが,今回の「大村はま記念国語教育の会研究大会」でした。
 はじめて参加させていただいたことや,参加されている先生方のお顔ぶれに緊張を禁じ得ませんでした。しかし,諏訪高女時代の教え子の方がいらしていたりするのを見て,本大会の思いの深さやあたたかさを感じ,自然と緊張している自分を忘れていました。
 中学校教諭として国語教室に身をおいている私ですが,最も印象的だったのは,三人の教え子の方々のお話を聞くことができた『証言「元生徒が語る大村教室」』でした。大村はま先生が国語の授業を通して伝えられたものが,生徒の皆さんにどのような形で残っているのか,とても興味がありました。もちろん,お話しいただいたのはその中のごくごく一部であろうと思いますが,そのすべてがとても感動的でした。
大村先生とともに中学時代から新聞づくりに夢中になって取り組まれた羽鳥さん,その取り組みが現在の新聞収集研究家というライフスタイルに脈々とつながっているということに,とても感激しました。
内海さんのお話では,「ワクワクする授業」という言葉にあらためて感銘を受けました。すぐに頭をよぎったのはもちろん自分の国語教室の生徒たちです。反省しきりでした。授業を考えるときのポイントを再確認できた時間でした。
 最後にお話しいただいた苅谷さんからは,『評伝 大村はま』執筆に関する大村先生との関わりをお聞かせいただきました。生前,大村はま先生が苅谷さんを他の人に紹介するときに発した褒め言葉は,実は苅谷さん自身に聞かせるためのものであった。それは評伝の執筆に当たられる苅谷さんへの「あなたならできる。大丈夫。自信をもって。」というメッセージであった。このお話から,教師の役割,またことばの持つ力の大きさや魅力を考えさせられました。
 現在私は,半年間の期間をいただき筑波大学の研究生として中学校から離れた場所で生活しています。本大会に参加させていただいたことで,来年の4月に再会する生徒たちとの生活が待ち遠しく感じられました。本大会で学んだこと,感じたことなどをしっかりと自分の中でまとめ,生徒たちに還元できるようにしていきたいと思います。



大村はま記念国語教育の会への
          ご入会を歓迎します

年会費は4000円(入会金不要)。 年一回の研究大会を開催。そのほか小さな研究会も随時各地で開催しています。会報「はまかぜ」を年3回発行。研究会の記録、お知らせ、会員による大村研究、実践記録、大村はまや国語教育などにまつわるエッセイなどを掲載。
関心をお持ちの方は下記の本会事務局までご連絡を。

大村はま記念国語教育の会事務局
 hokokugo@gmail.com  

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# by ohmurakokugo | 2010-11-30 10:40
埼玉大会 元生徒の証言1
中学で大村はまに育てられた三人の教え子が、それぞれに大村教室を振り返った。羽島さんは目黒八中の生徒で、新聞収集研究家。内海(小西)まゆみさんは石川台中学校の生徒で、現在、国語教師。苅谷(前田)夏子も石川台中学校の生徒で、本会事務局長である。司会は本会理事で埼玉大会実行委員会の、中山厚子。

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中山 この〈証言>では、大村はま先生の元生徒の方々に、大村教室について語っていただいています。大村先生は「学習はもちろん面白くなければいけない。面白くなければ何も考えないし、何も覚えない。しかし面白ければいいのではない。何を面白がると思うべきか。面白がるようにそれを使用しなければならない」とおっしゃっていました。教室に魅力をということですが、魅力あるものにするために、私たち実践人は様々な知恵をめぐらせ工夫しており、そこに苦労があるわけです。ではその大村先生の教室でどのようなことを学ばれたか、お話を聞きたいと思います。

羽島 人生には不思議な出会いがあるものだと、実際に七十五歳になった今でも、大村教室に入った幸運を実感しています。もともと新聞が好きだった私は、まず大村先生と相談してガリ版刷りの学校新聞、『八中読売』を創刊しました。その翌年に単元学習で新聞がテーマになりました。新聞記事の書き方や、紙面の割り付けなど様々なことを学びました。私は新聞の資料を調べることになって、全国各地で発行されている新聞の題字を集め、大きな日本地図に貼って発表しました。これが好機となって私の新聞収集がスタートしています。
 大村先生は私のことを後に教室でも生徒に話しておられます。「私は羽島さんの仕事を思うとき、集めておく、記録しておく、保存しておくということの値うちを考えるのです。羽島さんはたしかに、自分で言っていたとおり、いわゆる成績優秀な生徒ではありませんでした。ただ、誠実な人でした。その誠実な、着実な気持ちで、着々と新聞を集めました。それを、羽島さんに言わせると、頭のいい人が使って、そしてそこから、この世の中に役立てることができるようになったわけで、『ほかの人の頭を借りていい仕事をした』と笑っていましたが、たいへん考えさせられる、いいお話だと思いました。」と結んでおられます。念願の日本新聞博物館がオープンし、五十年をかけて集めた私の新聞コレクション十万点あまりが、この博物館の基本資料として嫁入りしたわけですけれども、「よかったわね、おめでとう」と誰よりも喜んでくださったのも大村先生でした。中学時代から半世紀経っても、教え子のことを思いやる大村先生は、本当に私は実の母以上の愛情を感じておりました。この日本新聞博物館もちょうど先月十周年を迎え、入館者は五十七万四千人を記録しました。
 七十五歳になった今も大村先生との出会いのおかげで、日々希望を持ってライフワークの新聞収集と研究に没頭している人生が送れることを心から幸せをかみしめています。そして大村先生と二人三脚で日の目を見た日本新聞博物館の未来に向けて、多くの来館者に感動を与え続けると確信しています。もし機会があれば、ご来館ください。

内海 私は「わくわく授業」をキーワードとして三つの授業についてお話しさせていただきたいと思います。
 石川台中学校の体育館で、今のように多くの先生方を目の前に、「平家物語」の冒頭を暗誦した日のことがまるで昨日のことのように思い出されます。「古事記」「源氏物語」「枕草子」「土佐日記」「徒然草」、夏目漱石、森鴎外、川端康成、宮沢賢治などの作品の冒頭部分を繰り返し、繰り返し楽しみながら音読をし、気がついてみたら覚えていたという状況でした。言葉の響きの美しさ、名作の持つリズムの美しさ、名作に親しむ楽しさを教えてくださいました。
 二つ目は「作家になる喜びで胸躍らせた」ということについてです。これは「五つの夜」という単元でした。夜になると私は小西まゆみではなくて別の人物になるんです。人物を考えるにあたって、どのようなアドバイスや注意点があったかは、そのときの手引きが手元にないので分からないのですが、とにかく別の人物になるというだけで、皆さんもわくわくなさいませんか。私は、母の友達になるということを最終的に一つ選択しました。そして毎晩のように母にインタビューをしました。小さいときはどうだったかとか、お友達は、疎開したときはということを事細かに聞きまして、最終的に私の「五つの夜」は母の友達になるということで作品が完成したかと思います。
 先生は私達に偉大なる作家の仲間入りをするというような喜びを与えてくださいました。その裏で情報収集、魅力的な書き出し、書き出しと結びの関連性、そういうものについても教えてくださいました。今思いますと五つという数字も、これ以上でもなく、これ以下でもないという絶妙な数字で、ちょっと背伸びをすれば届く目標を常に私達に与えてくださっていたのだなと思います。
 三つ目のわくわくは「読み」についてです。本の中に没頭するような授業を本当にたくさんしていただきました。その中でも「明治・大正・昭和 作文の歩み」という授業が私は忘れられません。明治、大正、昭和の同年代の少年少女たちが本の中で生きていました。二十年から百年という時を超えてタイムスリップしたかのような錯覚というものは少年少女たちのそのときの目や耳、そして心で感じたことが綴られた作文の力ゆえだと思います。それらの作品をどんな観点から分析していくか、つまり今で言うところの課題設定能力、それから分析能力を先生の三年間のプランの中で徐々に育てていただいたわけです。
 いかがでしたでしょうか。三十年以上経っても、今の私の心に生きる大村先生のわくわく授業のほんの一部でしたがお話しできました。

苅谷 6年前に『評伝大村はま』の企画がもちあがり、2年くらい前から書き始め、今年8月に無事に出すことができました。
 評伝を書くという仕事自体が、国語単元学習の一つの典型だったという気持ちが、今、しています。振り返れば、評伝を書く仕事の様々な局面で、大村教室で学んだ仕事の仕方の手ほどきが実に生きた気がします。中学の教室で本当に多岐にわたるいろいろなことを体験しましたけれども、そこで身につけたスキル、勉強法、心得、様々な工夫や力が、大人になった今、ちゃんと役に立っている。あれらはちっとも子供だましでなかった。もちろん、中学生に合う規模と材料で学んだわけで、それがそのまま、というのではなく、そこで植え付けられた基礎や姿勢やエネルギーが、私と共に順調に育って、大人の仕事を支えるものになったということ。これは振り返ってみるとしみじみありがたいという気がします。
 今回はエクセルに約500項目の事実や資料を打ち込んでいき、順番を時系列に沿って並べ変えたものが、基礎資料でした。こういう仕事の仕方は、粗末なわら半紙に作文の材料を書いて、机の上に並べ替えて構成を工夫した、中学生の頃の大村教室があります。500という数にたじろがないで、いい加減なことをしないで焦らずにやっていけばいつかできる、と自分に言い聞かせ、手に余らない分量の仕事を確実に重ねていくという感覚は、大村はま譲りです。
 でも、整然と材料が五百項目も並んでみて初めて気づいたのは、材料はあくまで、材料でしかないということでした。なにか触媒のようなものがそこに作用しないと、材料は有機的には結びつかない。そこに必要なものは二つあったと思います。一つは何とか有機的な世界をここから作ろうという創造の意欲とエネルギーです。そしてもう一つは、「意志的な私」であることを支える自信でした。「自信」という、一番やっかいなものを、私は先生から最後にいただいていたのだと思います。
 創造のエネルギーを持つこと、表現者としての自信を持つこと、これは実は大村学級でずっと大村先生が私達に与えようとしていたのだと思います。『評伝』を書く仕事は私にとっては難しい仕事でしたが、その元になるものが中学の教室でちゃんと手渡されていたと感じています。

小林圀雄 みなさん話し方も大変お上手ですね。大村はま先生から話し方について、指導をお受けになったと思いますけれども、最も印象に残っていることを言ってください。
内海 班の中で話し合い。そしてクラスでの話し合いや発表、もっと大きいチャンスも与えられまして、場数を踏んだ中で次第についてきた力、つけていただいた力というように思います。
羽島 グループ活動でものを調べて発表する。みんなが発表するわけで、自分だけ黙っているわけにはいかないので、そういうところで訓練をさせていただいた。朗読や放送劇などいろいろな話す機会を与えてくださったことが、私が今日お話ができるようになった源のではないかと思っています。
苅谷 話し手としての大村先生の力が際立っていました。身近に優れた話し手がいて、私たちには憧れだったし、かっこよかった。知的で、暖かいのにとてもシャープでした。憧れが私達を引き上げたという気がします。

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# by ohmurakokugo | 2010-11-28 20:31
倉澤栄吉会長のことば
来年早春には、大村はま記念国語教育の会の倉澤栄吉会長は満100歳となる。埼玉大会は、倉澤会長の講演で始まった。
体調を考慮して20分ほどと短い時間ではあったが、中身の濃い一日にいかにもふさわしい口火を切っていただき、空気が引き締まった。

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埼玉大会の要項に寄せた倉澤会長の挨拶にこのような一節がある。

「私が大村さんの教室に参入したのは、何回になったであろうか。私は元来、教師の現場である教室を参観するのが好きであった。大村はまに出会って、大村教室に参入して、私はすっかり夢中になった。大村はまの教室は、常に至れり尽くせりの準備がなされていた。彼女は努力の人であったが、その努力のもとは、生徒への奉仕の精神が根底にあった。元来、教師というものは、職業を超えて子どもたちに奉仕するという心構えを、皆持っているのであるが、大村さんの場合、この精神に貫かれていた。
 私は彼女の授業をみて、相談を受けてアドバイスする。大村はその私の提案を、私が考える以上に具現化していた。私の提案以上に、大村は、大村の国語教室を作り上げていったのである。
 授業の技術が優れていたという単純なものではなかった。私は今にして、一層そのことが思い出される。・・・」

こう語る倉澤会長をリーダーとして、大村はま国語教室の会は、また、大村はま記念国語教育の会は、ここまで歩んできた。100歳を迎えるリーダーが、今にして一層思う「授業の技術が優れていたという単純なものではなかった」という大村はまの本質は、深く、重い。だからこそ、追いたくなる。追うと、その遠さに呆然としたりするが、同時に、遠い本質を追うことの手応えも、知る。

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# by ohmurakokugo | 2010-11-22 14:10
埼玉大会から
埼玉大会の「花」は、藤原咲子さんでした。

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「流れる星は生きている」という昭和二十年代のベストセラーの作家、藤原ていは、諏訪高等女学校での大村はまの生徒でした。当時、諏訪高女は村から毎年一人か二人しか進学しない、諏訪近隣の人たちが憧れもし、尊敬もする、そういう学校でした。たった12歳で家を離れ、寮で暮らすようになったていは、家を恋しがり、人付き合いにも疲れ、学校を辞めたいとさえ思います。しかし、はまの授業に出会って、ていの学校生活ががらりと意味を変えます。大村先生に認めてほしくて、ていは周囲が驚くほど、勉強に打ち込んでいきます。

当時、作文という授業が週に一回ありました。生徒たちは、率直な、また勢いのある文章を書きつづっていきます。大村は連日、深夜まで作文を読み、細い赤ペンで欄外にことばを書き込んでいきます。それは、書いた生徒の心に寄り添うような、寄り添いつつ背を押して、一段高い台の上に一緒に立つような、そういう書き込みでした。生徒は先生の赤い文字が早く読みたくて、作文が返されるのを楽しみにしていました。

ていも、もちろんそうです。ていと大村はまとの間を作文のお帖面が行き来し、ていの綴ることばを、ていと大村とが額を集めて覗き込み、雛を温めるような指導がなされます。

先年、その赤字でいっぱいのお帖面が、ていの実家の蔵から見つかった、というのです。

埼玉大会で、ていの長女、咲子さんは、12歳だった母の作文と、それに添えられた大村はまのことばを、一つ一つ、私たちに読み上げてくださいました。ていさんのまっすぐな視線が印象的な作文に、大村の温かな共感と優れた指針とが見事に添えられていました。聞いても、聞いても飽きない、作文と作文指導という名の、一つの作品のようでした。そして、ていの作文が徐々に深く、広くなっていく。成長していくのが、わかりました。

藤原ていさんは数年前から自宅で療養生活をなさっていて、咲子さんが訪ねてももう会話はできないのだそうです。
けれども、咲子さんは訪れるたびに、おかあさんの手をとって、「ほら、大村はま先生が、がんばれ、がんばれ、と言ってるよ」と言うのだそうです。
すると、ていさんは、頬を赤らめるのだそうです。

七十年前の先生の名を聞いて、頬が赤くなる。みなさん、そういう教師であるでしょうか。ありたいですね。・・・という言葉で、咲子さんの講演は終わりました。
聞く私たちの頬も、不思議な熱で赤くなりました。

藤原咲子さんは現在、ていさんの小さいころからの日記やお帖面を素材に、新著を執筆中だそうです。早く文字になったものを読みたいものです。


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# by ohmurakokugo | 2010-11-21 20:54
埼玉大会が終わりました
大村はま記念国語教育の会の第6回研究大会【埼玉大会】が、終わりました。

風もない穏やかな秋の日に、さいたま市民会館うらわに集った人々はおよそ180人。

180人の人たちは、いろいろな思いを抱いて集まりました。

180人の中には、大村はまと数十年間歩みを共にした「戦友」のような人たちもいます。たとえば倉澤栄吉。野地潤家。
また、180人の中には、先輩に誘われて参加したけれど、ほとんど「大村はま」という名しか知らない、すごい先生だというけれども、そのすごさは何なのだろう・・・ と白紙に近いような若い教員もいます。
大村はまと個人的な付き合いのあった人たちも。
「私淑」という言葉がふさわしい、勉強家も。
大村教室の教え子も。
国語教育を研究する大学人も。

その非常にばらばらの条件をもった180人が、この大会に集った成果というものは、やはり非常にばらばらであると思います。大村はまを知る第一歩を踏み出した人もあれば、大村はま研究の最先端のヒントをつかんだ人もあったでしょう。それは入門だけを目指すセミナーや、最先端だけを目指す専門的学会と、まったく異なる点です。
しかし、それぞれが、切実に何かを考える場面が必ずあった。思わず、熱く「そうだっ」と納得するひとこまがあった。それは確かなようでした。

すでに退職している参加者たちが、若い人たちを横目で見ながら、「いいなあ、あの年で大村先生を知って、勉強を始められたら。ああ、授業がしたい・・・」という述懐をもらすのを、あちこちで聞きました。

「本気で勉強して、いい授業がしたい」という気持ちが最後に流れた。そのことをもって、埼玉大会は成功であったと言いたいと思います。


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# by ohmurakokugo | 2010-11-18 10:11
  

大村はま記念国語教育の会のネット版会報。国語教師・大村はまについて、知り、考え、試し、自分の力にしたいと集まった会。ご入会を歓迎します。お問い合わせは hokokugo@gmail.com まで。
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